「ある日の朝の教話から」

                            教会長 阿 部 寛 幸 ある日の朝の教話から 「神があっての氏子、氏子あっての神じゃによって、病気災難をはじめ何事でも、非常と平生とにかかわらず 神に願いをかけよ。信心とは、常平生、神の心のようになって信心するのが信心じゃ。 手を合わして拝むばかりが信心ではないぞ。  ご一心とは、字にでも一つの心と書いてあるから、二心のうろたえ心を出さずに、 天地金乃神に一筋に取りすがるのが一心じゃ。十分なおかげを受けるのは、一心でなければならぬ」と言うてござった。            尋求教語録一九八条  今朝は、このみ教えを頂いてまいります。私たちは、神様のおかげの中に生かされて生きておりまして、 ありがたいことであります。そのように神様のおかげで生きておれる人間ですから 「神様あっての氏子」であります。  そして、神様のお心、お働きを現していくのは、氏子である私たちなので、氏子の信心によって、 すなわち人間のあり方によって神の働きを現すことができることを、今朝のみ教えの冒頭に 「神あっての氏子、氏子あっての神じゃによって」と願われていると思います。  また「病気災難をはじめ何事でも、非常と平生とにかかわらず神に願いをかけよ。 信心とは、常平生、神の心のようになって信心するのが信心じゃ。手を合わして拝むばかりが信心ではないぞ」 と続いております。何事でも神様に願いをかけること、非常や平生にかかわらず、いつでも、どこでも、 何ごとでも神様に願をかけていくことです。そのなかでも特に、常平生の信心のたいせつさを諭され、 しかも、手を合わせて拝むばかりではないということです。  ある方が食事のことをお願いされました。「新聞を読みながら食事をしているので、それを止めさせてもらいたい」 とのことでした。と言いますのも、最近よくお参りができ、み教えを聞かせて頂く中で、神様のお恵みであり、 いのちのもとである食物をいただくのに、神様に心が向いていない自分に、改めて気づき、 若い頃からの食生活が、自分の体の難儀を作り続けてきたのだと思う、とのことでした。  食事のときに、新聞を読んではならないということではなく、自分自身が気づき、 自らが止めようと決心ができたことに、ありがたさを思いました。改めてなぜかと言いますと、 神様をいただいていくことを生活の中心にしていくことを願われたからです。 もちろん、食事のときだけではありません。生活のすべてにわたってのことであります。 学院時代のことです。あることで神様に願わせて頂かなければならない、大きな出来事が起こりました。 その日が奉仕の役柄でしたので、神様に向ってお願いをさせて頂くのですが、なかなか一心になれなくて、 一心になることは本当に難しいことでした。 その翌日、本部広前にお参りして、金光様にお取次を願うと共に、一心になれないことを、 お願いさせて頂いたのです。 金光様は、「ご祈念のときだけ一心になろうと思うても、それは無理です」仰せられ、 「食事をするときも一心、道を歩いているときも一心、掃除をするときも一心、 そのけいこのたいせつさ」を、み教えくださいました。 「常平生、神様と共にあることのたいせつさ」を、思わせて頂きました。 み教えに「ご信心する者は、どうしてもご一心でなければならぬ。思う一念は岩をもとおすというが、 金光様にご一心の一念は神様を動かすぞ」とあります。神様が動いてくださるような一心とは、 教祖様にはじまるお取次の働きの中でのご一心といいますか、金光様のみ心を頂いての一心だと思います。 神様が動いてくださる真一心の信心を、お互いに求め、辿らせて頂きたいものです。 そして、もっともっとお道の信心のおかげを頂き、お役にたてるようにと願います。 本日はありがとうございました。